2011年6月19日日曜日

気仙沼から帰りました②

 17日の午前と午後の約三時間、各種制度の紹介などがかかれた党のニュースを持ち、気仙沼市南郷の地域を訪問しました。
 この地域は半壊に査定されたお宅が多いようですが、住んでいないお宅が半分以上です。 市委員会事務所もそうでしたが、一階の天井近くまで浸水した、バラの花が咲いているお宅の老夫婦にお会いしました。「全壊か半壊かの決め方が、腑に落ちない。住み続けるかどうか迷っている」といっていました。

「共産党が一番最初に支援バザーをしてくれた。感謝している」というかた。

  「今朝、国民金融公庫に融資に行ったが、保証人がいないからと拒否された。こんな状態で保証人なんか頼める人なんかいるわけない。夫婦で泣いて帰ってきた。金輪際税金は払わない」という業者の方。

 どこのお宅も「北海道から来た共産党のボランティアです」というと快く応対してくれました。
 うちの地区の五人の救援メンバー最年少、34歳のTさんは本当に働き者。まわりの人たちの動きを見て、率先して行動する姿に、宮沢賢治「雨にも負けず」の「そういう人」を みた思いがしました。






14日の昼食は、『青龍軒』。
誰ひとりとして同じメニューを注文せず。
「冷やしラーメン」を頼んで、出てきたのが冷たいスープに普通のラーメンだったのが、不服だったI委員長はTさんの「冷やし中華そば」をみてこれが食べたかった、と悔やんでいました。私は「気仙沼ホルモンどんぶり」を食べました。おいしかった!

支援物資の仕分けを一緒にしているとき、秋山市議のおくさんが、英字ビスケットのお菓子を持って、「心がこもっていて嬉しいね」としみじみ言っていました。


最後は結局食べ物で、閉めましたが――私たちがやってきたことは、ほんの些細なちっぽけなことだけれど、お目にかかった方たちの元気につながれば、これ以上のものはありません。
 今朝、赤旗日曜版を配ったあと、厚別川沿いを歩きました。
パークゴルフを楽しむ人、川の清流で釣りをしている人、そして立ち並ぶ家々を見ながらも、気仙沼の大川の海側「死んだ町」の荒涼とした風景が脳裏から離れませんでした。