2020年8月27日木曜日

小樽ツアー

  新婦人の仲間とともに、「小樽ツアー 多喜二と啄木の歴史」に参加しました。

  実はツアーの担当者が高校の後輩で、そんなこともあり、参加させていただきました。

 旅行会社としては数カ月ぶりのツアーとのことでした。

 待ち合わせ場所の「鐘の広場」は札幌北口の通路にありますが、この通路も「鐘の広場」も通路に面しているトイレも、残念ながら新幹線延伸にともなって取り壊されることが市議会で決められています。

 バスの中では小林多喜二の生い立ちや生き方、家族や恋人、そして共産党の活動のこと、特高警察に拷問を受けて殺されたこと、こよなく小樽を愛していたことなど、ユーモアも交えた話は興味深く、あっというまに目的地に。

 「多喜二の考えは悪い考えだったんだべか。貧乏人を助けたいって考えたことが、そんなに悪いことだったんだべか…(略)」パンフレットに掲載された、三浦綾子の「母」から引用した多喜二のおかあさんの言葉は、異論や少数者を差別、排除する今に通じます。

 小樽運河の観光バス駐車場では、私たちがその日の唯一の客。深々とお辞儀し、見送る係員に目頭が熱くなりました。

 底抜けに明るい仲間たちと久しぶりの1日、徹底した感染対策のもと、食べて学んで笑ってたくさん歩きました。

 楽しかった!

(8月26日 記)

2020年8月20日木曜日

「焼き場に立つ少年」

  カトリックローマ教皇が「戦争がもたらすもの」とメッセージを添え、世界に向けて普及を呼びかけ、注目された被爆写真「焼き場に立つ少年」。

 すでに事切れた幼児を背負い、少年は荼毘に付すため、直立不動で炎の前に立ち、血をにじませる程に口を結んでいます。

 撮影したアメリカの従軍カメラマン、ジョー・オダネルさんは、被爆地長崎でこの写真を撮って以降、占領者としてではなく、同じ人間としての存在の原点をカメラに収めるようになります。

  少年の写真をはじめ被爆した子どもたち300枚の写真フィルムは、アメリカ政府には提出せず、40数年間現像されずにオダネルさんのトランクの中にしまわれていました。

 しかし、1989年「核戦争を繰り返さないことに繋がるのなら」と、写真展を開きます。核兵器肯定論の強いアメリカで、バッシングされながらも、2007年8月9日、85才で亡くなるまで戦争反対を訴えました。

 2年前国連で採択された核兵器禁止条約の批准国は44カ国になり、国際法として拘束力をもつための50カ国の批准まであと一歩と迫っています。

 被爆者にも条約にも背を向け続ける日本政府と、「条約の批准」を政府に求めることすらできない札幌市議会。

  75年前の子どもたちのことを忘れず、声を上げ続けるしかありません。

(8月19日 記) 

 

2020年8月8日土曜日

新型コロナ感染症対策に関する5回目の緊急要望を提出

  8月5日(水)日本共産党札幌市議団は、「感染防止のために公費によるPCR検査の拡大を」と、秋元市長に対し、新型コロナウイルス感染症対策に関する5回目の緊急要望を提出しました。

 村上ひとし団長は「感染拡大を防ぐため、発熱などの症状がある人や濃厚接触者だけではなく、幅広くPCR検査等を充実させていくことが極めて重要だ」と強調し、医療機関への支援や検査体制の拡充を強く求めました。

 要望書を受け取った町田副市長は「市の検査数も上がってきている。インフルエンザが流行する秋冬に備え、体制を取っていきたい」と答えました。

 私は地域の女性後援会の「アクセス道路学習会」のため、要請行動には参加できませんでした。

町田副市長に要望書を手渡す村上ひとし団長と日本共産党札幌市議団=8月5日

 

 要望は3項目で、①すすきの地区に臨時開設しているPCR検査の体制拡充。

②医療機関、介護施設、福祉施設、保育園・幼稚園、学校など、集団感染リスクの高い施設に勤務する職員への定期的なPCR検査の実施。

③感染の可能性を心配する市民が、身近にPCR検査を受けられる体制をめざすことなどを求めています。

新型コロナウイルス感染症対策に関する緊急要望(8月5日)
 

 今回の緊急要望は、7月28日、日本共産党の志位和夫委員長が政府に対し行った緊急申し入れに基づくもので、疫の観点からPCR検査を大規模に実施し、可能な限り陽性者を特定し、無症状の感染者も含めた「感染力」のある人を隔離・保護することで感染拡大を抑止するという考えに立っています。

赤旗写真ニュース 2020年8月2週 1534号
 

👉感染震源地(エピセンター)の徹底検査を/志位委員長が政府に緊急申し入れ/市民的運動をよびかけ(しんぶん赤旗7月29日付)

 

以下緊急要望の全文を紹介します。

 

2020年8月6日木曜日

シュンくんの日記

 「1945年ひろしまタイムライン」。もし75年前にSNSがあったら……ゆうべ観たNHKテレビ番組です。

 実在した方3人の日記をもとに、75年前の夏の日々を高校生や若い人たちが実際に同じ場所を歩いたり、当時の文献を学んだりし、今風にSNSで再現するのです。

 シュンくんたち3人の日記は、ツイッターでも見ることができます。
  
 8月4日、今日のシュンくんの日記。

 シュンくんは6日広島に向う列車の中で8時15分を迎えます。列車を降りて何時間も歩く中で、被爆した人たちの異様な集団に遭遇します。

 そのなかにシュンくんより小さい女の子が二人。熱風で衣服もなく、顔をもパンパンにふくらんで、大きい方の子が小さい子の手をしっかり握り、「しっかりね、しっかりね」と励ましています。シュンくんは立ちすくんだまま。いつの間にか二人の女の子の姿は見えなくなりました。

 88才になった被爆者のシュンくん、新井俊一郎さんは言います。

 「あれは私にとって昔のことではないのです。あのあと絶対に生きられなかった二人の女の子。自分は何もできなかった」
  
 きっと多く方々の心にも、メッセージを残されたに違いありません。

(8月4日 記)