2011年6月29日水曜日

救援ボランティア報告会 6/28

 昨日の午後、区民センターで気仙沼市救援ボランティア報告会があって、34人の参加がありました。
 使った写真は53枚で、9割は私が撮った写真ですが、残りは他のメンバーのものをかりました。
 私が報告の中で一番言いたかったのは、救援に行くことで、被災地の方の心が前に向かう上で必ず力になるえるということだったけれど、伝わっただろうか――。

 もう一つは、共産党は立党の精神として、大災害の時には、党がどんな状況でも被災者の救援をしていることだけれど、舌足らずで恥ずかしい限りです。

 参加者からは「大企業は火事場泥棒みたいに災害でももうけている」
「現地に行った人の話は、生々しい」「義援金はもう出ているのですか」などの質問や意見・感想が活発に出されました。

 緊急に取り組んでこんなに参加があって、改めて東日本大震災へのみんなの思いや関心の強さを確信しました。
 
 

議会傍聴6/27

 どうしたものか、カードの写真を取り込むことができない――。
字だけだと、さびしいね。

一昨日は市議会の第一特別委員会の傍聴をしました。文教委員会関係の審議でした。

 不登校の子どもたちの居場所となっているフリースクールは、道教委が把握している分で札幌市内に14校あります。

 今年度の補正予算に、「フリースクールの支援のあり方の調査研究費」として155万円が新規に計上されましたが、これに対して「フリースクールに支援することは、不登校をふやすみたいなものだ。学校教育の否定にならないか」と質問したのが、清田区選出の新人議員(自民・市民会議)です。

 私はフリースクールが支えている教育の役割は、けして小さくはない、と思います。
 議員が幼稚園の園長先生をしている方なので、「それでも教育者ですか!」と心の中で叫ぶような気持ちで、メモをとってきました。

2011年6月26日日曜日

姫リンゴにまた害虫――!

 きょうは、厚別川河川敷の草取りがありました。
 ご近所のOさんが鎌を研いでくれたので切れ味も良く、快適な汗を流しました。
 サイクリングロードを歩きながら姫リンゴの葉に不自然なものが見えたので、近寄って見たら、やっぱり――!害虫の幼虫です。
 去年も大発生したのですが――。
明日土木センターに駆除をお願いしなくては。
うーん、むずがゆくなりそう――。

月下美人

2^3日前に友人宅の玄関フードで前夜開いたばかりの月下美人にあいました。
莟がたくさんついていて見事!
 こんな日はラッキーな気分です。

2011年6月19日日曜日

気仙沼から帰りました②

 17日の午前と午後の約三時間、各種制度の紹介などがかかれた党のニュースを持ち、気仙沼市南郷の地域を訪問しました。
 この地域は半壊に査定されたお宅が多いようですが、住んでいないお宅が半分以上です。 市委員会事務所もそうでしたが、一階の天井近くまで浸水した、バラの花が咲いているお宅の老夫婦にお会いしました。「全壊か半壊かの決め方が、腑に落ちない。住み続けるかどうか迷っている」といっていました。

「共産党が一番最初に支援バザーをしてくれた。感謝している」というかた。

  「今朝、国民金融公庫に融資に行ったが、保証人がいないからと拒否された。こんな状態で保証人なんか頼める人なんかいるわけない。夫婦で泣いて帰ってきた。金輪際税金は払わない」という業者の方。

 どこのお宅も「北海道から来た共産党のボランティアです」というと快く応対してくれました。
 うちの地区の五人の救援メンバー最年少、34歳のTさんは本当に働き者。まわりの人たちの動きを見て、率先して行動する姿に、宮沢賢治「雨にも負けず」の「そういう人」を みた思いがしました。






14日の昼食は、『青龍軒』。
誰ひとりとして同じメニューを注文せず。
「冷やしラーメン」を頼んで、出てきたのが冷たいスープに普通のラーメンだったのが、不服だったI委員長はTさんの「冷やし中華そば」をみてこれが食べたかった、と悔やんでいました。私は「気仙沼ホルモンどんぶり」を食べました。おいしかった!

支援物資の仕分けを一緒にしているとき、秋山市議のおくさんが、英字ビスケットのお菓子を持って、「心がこもっていて嬉しいね」としみじみ言っていました。


最後は結局食べ物で、閉めましたが――私たちがやってきたことは、ほんの些細なちっぽけなことだけれど、お目にかかった方たちの元気につながれば、これ以上のものはありません。
 今朝、赤旗日曜版を配ったあと、厚別川沿いを歩きました。
パークゴルフを楽しむ人、川の清流で釣りをしている人、そして立ち並ぶ家々を見ながらも、気仙沼の大川の海側「死んだ町」の荒涼とした風景が脳裏から離れませんでした。

気仙沼から帰りました ①

 共産党豊平清田南地区委員会の第一次救援ボランティア隊五人のひとりとして参加し、きのう帰って来ました。12日苫小牧を出港し、13日お昼頃仙台港に到着。大型車が駐車している向こうには瓦礫の山が至る所にあって、港内の信号はまだ機能していません。
 
 


着いてすぐ私は支援物資の仕分けをし他の男性メンバーは気仙沼市委員会の泥だし。14日は私も泥だし作業や壁の取り壊し作業をしました。一日で土嚢30袋以上が汚泥でいっぱいに。隣の家との間の泥だしは下水口があって、マスクなしでは気絶しそうな腐臭がしています。私は鯖の頭をたくさん掘り出しました。しばらく食べたくない――。四人が立っているのが、共産党気仙沼市委員会の建物です。天井近くまで水につかり半壊と査定されています。 左から、お腹の突き出ているんがわが地区委員長です。その左が地元の方、その隣が南区のOさん、Oさんの陰になっているのが清田のTさんです。          (三枚目の写真)鯖が見つかったのが赤い作業服の私の後ろのあたりです。                     
 (四枚目)15日は二階の天井近くまで津波で浸水した『魚町』のT食堂の泥だし。店舗の一番奥は倉庫になっていて泥を流せないので最初はスコップでやっていたのですが、ちりとりの方がやりやすかった。強力シャワーで泥を流し泥水をすくう、これを何度かくり返した後、ぞうきんでまた何度か拭き取ります。トイレを含む三つの部屋の泥だし完了。T食堂のおばあちゃん(80歳)はまだ店を続けるかどうか決心できていないといっていましたが、とてもとても喜んでくれました。


最終日の17日、他の四人はきょうも魚町のT食堂の泥だし。私は函館のSさんTさん、道委員会のOさんと女性四人で訪問聞き取り行動。 『大川(川の名前)』の山側は生き残った町、海側は死んだ町と言われています。
訪問する地域は山側なのですが、被害のひどい地域を先に見ることにしました。
町の方から、「このあたりは何百人もの人が死んだんだ。この向こうはもっとひどい」と言われ先を急ぎました―――。

クレーンなどで作業中でしたが、言葉通り「死んだ町」そのものでした。「ひどい」の言葉しかでて来ませんでした。




2011年6月9日木曜日

第二回定例議会初日 傍聴

七日付の北海道新聞にのっていましたが、今年の国保料が、多い世帯では五万円増――!
 それでなくとも高くて払えないような国保料を何でまた上げるんだ、と目をつり上げて本会議の傍聴をしました。
 42分間の市長提案がありましたが国保については全く触れていませんでした。「総合的な交通網」とはいっても「交通弱者」の清田区のことは皆無。やっぱり声を大きくあげないとだめだなあ――と改めて思いました。今回の50億の補正予算を含める今年度予算8659億は史上最大の規模とのこと。
 
 
保育所1360人増や特定健診に心電図検査や貧血検査を加えたことや母子家庭自立支援事業の拡大など充実したと感じました。
傍聴者は南区の紙谷さんと私を含めて5^6人ぐらいだったと思います。
 震災地救援で12から18日まで留守なので、来週の代表質問を傍聴できないのが残念です。
 左は上田市長が提案している写真ですが68の数字は出席議員数です。開会時は確か66人と報告されていたと思います。私の聞き違いでなければ2人遅刻したのですね。

2011年6月8日水曜日

救援ボランティアで気仙沼市に


北海道の共産党は、先月から宮城県気仙沼市に支援活動にとりくんでいます。
 我が豊平清田南地区は五人のメンバーが12日に出発し18日に帰札の予定ですが、私も参加することになりました。
 きょうはワークショップで作業服とステンレス入りの靴底を買ってきました。
 ボランティア保険にも加入しました。ボランティア保険は600円と格安で加入日から一年間有効です。東日本大震災以前は加入の翌日から有効だったそうです。申し込みは豊平区の社会福祉協議会ですが懇切丁寧に説明してくれました。
 帰ったら地域ごとの報告会を開きたいと思います。