2011年6月19日日曜日

気仙沼から帰りました ①

 共産党豊平清田南地区委員会の第一次救援ボランティア隊五人のひとりとして参加し、きのう帰って来ました。12日苫小牧を出港し、13日お昼頃仙台港に到着。大型車が駐車している向こうには瓦礫の山が至る所にあって、港内の信号はまだ機能していません。
 
 


着いてすぐ私は支援物資の仕分けをし他の男性メンバーは気仙沼市委員会の泥だし。14日は私も泥だし作業や壁の取り壊し作業をしました。一日で土嚢30袋以上が汚泥でいっぱいに。隣の家との間の泥だしは下水口があって、マスクなしでは気絶しそうな腐臭がしています。私は鯖の頭をたくさん掘り出しました。しばらく食べたくない――。四人が立っているのが、共産党気仙沼市委員会の建物です。天井近くまで水につかり半壊と査定されています。 左から、お腹の突き出ているんがわが地区委員長です。その左が地元の方、その隣が南区のOさん、Oさんの陰になっているのが清田のTさんです。          (三枚目の写真)鯖が見つかったのが赤い作業服の私の後ろのあたりです。                     
 (四枚目)15日は二階の天井近くまで津波で浸水した『魚町』のT食堂の泥だし。店舗の一番奥は倉庫になっていて泥を流せないので最初はスコップでやっていたのですが、ちりとりの方がやりやすかった。強力シャワーで泥を流し泥水をすくう、これを何度かくり返した後、ぞうきんでまた何度か拭き取ります。トイレを含む三つの部屋の泥だし完了。T食堂のおばあちゃん(80歳)はまだ店を続けるかどうか決心できていないといっていましたが、とてもとても喜んでくれました。


最終日の17日、他の四人はきょうも魚町のT食堂の泥だし。私は函館のSさんTさん、道委員会のOさんと女性四人で訪問聞き取り行動。 『大川(川の名前)』の山側は生き残った町、海側は死んだ町と言われています。
訪問する地域は山側なのですが、被害のひどい地域を先に見ることにしました。
町の方から、「このあたりは何百人もの人が死んだんだ。この向こうはもっとひどい」と言われ先を急ぎました―――。

クレーンなどで作業中でしたが、言葉通り「死んだ町」そのものでした。「ひどい」の言葉しかでて来ませんでした。