2021年9月9日木曜日

胆振東部地震から3年

「液状化」「盛り土」「ブラックアウト」、どれも胆振東部地震までは、なじみのない言葉、初体験づくしでした。

目の前の道路が2メートルも3メートルも隆起するのですから、実際に被害にあった方のショックは言葉に表すことができないほどでした。

地震の9日後から、共産党の清田区委員会は、道委員会が作成した「制度活用の手引き」を持って、里塚、美しが丘、清田地域の約600軒を訪問しました。

地震の後、近所の人たちとも話していないと涙ぐむ人、夜眠れないという人など……の地域の生の声をつぶさに聴いて回りました。

それが、胆振東部地震からの支援と復旧活動の原点です。

数日前、自宅が全壊し、もとの場所に家を新築したお宅を訪ねました。

「年金ぐらしでローンを払うのは大変だけれど、孫のおかげでがんばれるんです」と笑顔で話してくれました。

昨日5日には完成したばかりの里塚ぽぷら公園で、「震災復旧工事完了のつどい」があり、工事関係者や住民のみなさんなどの労苦をねぎらい、里塚中央の被災地も新たな歩みを踏み出しました。

私たちの住む日本列島は、温暖化のもと、災害が激甚化しています。

「被災者支援」はさらに厚くし、生活再建の後押しをすることが不可欠です。

(9月6日 記)

 

復旧工事の完了した「里塚中央ポプラ公園」=9月6日、札幌市清田区

2021年9月2日木曜日

玉砕の島、テニアン島

 28日の夜はNHKの「ETV特集」の衝撃でなかなか寝付けませんでした。1944年夏、マリアナ沖海戦に続き、サイパン島、グアム島とともにテニアン島では地上戦が繰り広げられました。

2009年8月NHK放送の「証言記録 市民たちの戦争 ー 楽園の島は戦場になった ~ テニアン島」によれば、現地で砂糖きびなどを営んでいた住民約1万5000人のうち、約1500人がこの戦闘で死亡(軍民合わせた死亡は約1万人)、その中の相当の部分が「集団自決」だったと報道されています。(生き残りの島民の証言)

親しい人同士が、家族が……。女性が心の重しになっていた体験を話したのは、取材を始めてから20年近くも経った頃と言います。

防空壕で、日本兵に小さい子を殺すよう命令されたものの、お母さんは手が震え力が入らず、当時12才の女性が、0才の弟の命を絶ったのです。そのときの、弟のカッと見開いた目が顔が終生目に焼き付いて離れないと語りました。

8月15日の戦没者追悼式で菅首相は、日本人犠牲者300万人への追悼はしたものの、日本が起こしたアジア・太平洋戦争の2000万人の犠牲者には全く触れずじまい。

来年の追悼式には、日本の侵略の歴史的事実を、きちんと認め「戦争はダメ」と言える人に式辞をしてもらわないと!

(8月30日 記)