2018年10月30日火曜日

未来に続く道

昨日(10月20日)の学習会「マルクスNIGHT」に参加し、学習への刺激を受けました。
講演のタイトル「革命家マルクスと現代、そして未来社会へ」。お話は、神戸女学院大学教授の石川康宏さん。
今年はマルクス生誕200年。資本論が発行された1867年、北侮道はまだ「蝦夷地」と呼ばれ、翌年には明冶政府軍による江戸城の開城で江戸時代が幕を閉じました。
そのような時代に、マルクスは、資本主義を徹底的に研究しぬき、その弊害を乗り越えた先にある「未来社会」を示し、根本条件は労働時間の短縮だと言っていたのです。
1日5時間労働とか週に3日働けば生活ができるとか、自由な時間で自分の能力を伸ばし、社会の先を見る人も増えるといいますが、資本主義社会の枠で生きている私たちにとって、「未来社会」は非現実的に感じられる方も多いと思います。
マルクスは「資本主義は体内に『未来社会』をはらんでいる」ことを示し、石川先生は「『未来社会』はいまの資本主義社会と『地続き』のところにある」と指摘されました。
知事選などで、国家権力丸抱えの相手候補を打ち破った沖縄県民に連帯するということは、安倍政権を倒すことだと、石川先生は力を込めて話されました。この日が投票の那覇市長選では、3連続勝利を成し遂げました。
私たちも頑張らナイト。
(10月21日記)

2018年10月25日木曜日

樺戸集治館

国道36号線の早朝宣伝に参加し、急いで老人クラブの秋の日帰り旅行に行きました。
町内会館前を出発し、月形樺戸博物館を見学、沼田町ほろしん温泉で昼食をとり、道の駅には何カ所か寄り、帰りは5時近くになりました。

月形樺戸博物館からは、JR北海道が一部区間を廃止したいとしている札沼線の月形駅が見えました。
博物館は、3つの建物があり、その一つが明治から大正にかけて、39年間刑務所だった「旧樺戸集治館本庁舎」です。廃館後、町役場として使用し、1972年に博物館として開館しました。
樺戸集治館には、政治囚も多く、中には秩父事件の農民志士も収監されていました。
明治19年、国道12号線を作るために、樺戸集治館から500人の囚人がかり出され、わずか90日で、87.9kmの道路を完成させましたが、作られた道路の幅は2mだったため、すぐに三笠の空知集治館の囚人も加え改修工事に取りかかりました。
私たちの身近にある国道12号線が、明治の半ばに囚人や朝鮮人の苦役によって作られていた事を知りました。
その頃の清田区は、豊かな水源を活用し、開拓農家が米作りに挑戦していたのだろうかと、思いを巡らしながら、「採水地札幌市清田区清田」と書かれたミネラルウオーターで喉を潤しました。
(10月17日記)


2018年10月17日水曜日

めざす札幌の姿

10月2日、市議会代表質問で、小形かおり市議(中央区選出)が清田区の地震被害の問題を取り上げました。
罹災証明書発行の9割を超える世帯が、具体的な支援のない「一部損壊」であるとして、被害の実態にそくした本市独自の支援策を求めたことを受け、秋元市長は「今後も検討する」と回答。
また、9月13日の住民説明会で、「毎年地盤沈下していたが市は塗装の塗り直し程度しかしてこなかった」と住民から訴えがあったことを示し、「札幌市の対応に問題はなかったのか、2003年の十勝沖地震の液状化の経験を踏まえ、地盤調査の必要性があったのではないか」と追求しました。
市長は「液状化は地下水位が高く、土の粒子が細かく均一な地盤に、地震の強い揺れが加わって発生するものであり、日常の道路沈下とは事象が異なるものと考えている」と、実に冷たい態度です。
5日、「清田区交通問題を考える会」が市の「出前講座」を開き、「札幌市まちづくりアクションプラン2015」を学ぶ機会を得ました。「目指す札幌の姿」として、「人を大事にする」を原点に据えると書かれていました。
これから市議会では「地震対策」の突っ込んだ審議が始まります。被災した住民を「大事にする」よう働きかけ続けます。
(10月9日記)

2018年10月13日土曜日

緊急の政府交渉

9月27日、胆振東部地震に関する、党北海道委員会の緊急要請行動がありました。
紙智子参院議員が各省庁にアポイントメントを取り付け、畠山和也前衆院議員や東区の太田秀子市議らと参加。
集合場所の参議院議員会館から首相官邸前を通り、歩いて5~6分ほどで内閣府に着きました。内閣府では山下雄平政務官が対応。
私は里塚や清田の液状化被害の写真を示して、地盤調査や土砂災害・崖崩れ対策の救援を求めました。
参議院議員会館に戻り、国交省、農水省、経産省に要請。内容は多岐にわたっています。
国交省の担当官は宅地の土砂に対して「市が取ってくれれば国が支援できる」。急傾斜地崩壊危険区域指定の斜面の高さ5mの基準を見直してほしいとの要望については、「崖の中から土砂が吹き出るというのは初めて。国の事業を使えば支援できる。国の事業を使うのは市の判断」とこたえました。
昼食は参議院会館の食堂。赤旗記者が注文したカレーは、1分程で届きました。忙しい人達のために、早いのだそうですが、畠山さんは衆院議員当時、その時間も惜しみ手弁当を持参していたと話していました。
夕食は太田市議とむかわ町の北村修町議と羽田空港で一緒にとり、帰路に着きました。
解決の「鍵」は「札幌市の決断」だとしっかりと胸に刻んで。
(10月3日記)




「オペラのお稽古」

「オペラ」と言えば、庶民には手の届かない芸術というイメージを持っている私ですが、北野に住む後援会員の娘さん後藤ちしをさんが出演されるということで、一昨日観にいきました。
場所は教育文化会館小ホール、日本語上演というので安心しました。
上演したのは、「オペラのお稽古」というお話と、「スザンナの秘密」の2作品。どちらもドイツーコミックーオペラの傑作といわれているそうです。
後藤ちしをさんが主役を務めたのは、1909年初演の「オペラのお稽古」です。
伯爵家の召使い役のちしをさんの歌声はベルベットのよう、軽やかな身のこなし、豊かな表情で、私は瞬きを忘れるほどでした。
帰りの地下鉄車内では、知り合いがたくさんいて、感動したことなど賑やかに話しあいました。
おりしも24日夜、雲の間から時折光を放つ中秋の名月を見上げながら、家路につきました。
翌朝、「オペラ効果」でしょうか、身体が軽やかに感じられました。
明日は紙智子さんや畠山和也さんとともに、胆振東部地震の緊急の政府交渉に参加します。里塚・清田・美しが丘などの住民のみなさんの思いをしっかり伝え、訴えてきます。
(9月26日記)

地域を歩いて

私の住む街清田区で、重大な地震被害が起きている。避難所まわりや危険箇所の把握などをしながら、土木センターや清田区長あての要望に取り組みました。
13日夜に開かれた札幌市の「住民説明会」は、住民の怒りがあふれるものとなりました。
「早く応急措置を取らないと、住める家も壊れてしまう」「2~3年前、あまりに沈下がひどいので、河川を調べてほしい(と言った)。『問題ないですよ』と言われた」など、3時間半の間、質問が次々と続きました。
後日の訪問でわかったのですが、何度挙手しても指名してもらえず、途中で帰ったという方もおりました。
清田区委員会は15日から3日間、党道委員会が作成した「災害救助対策諸制度活用の手引き」を持って、被害の大きかった里塚をはじめ、清田や美しが丘510軒を訪問しました。
一人ひとりの状況も思いもそれぞれ違います。
北海道胆振東部地震から13日。地震の被害で日常の生活を奪われた方々は、余震が続く中で、家屋の倒壊の不安や、生活や生業への不安とたたかいながらも、新しい一歩を踏み出すために、自らを奮い立たせていることを、肌で感じました。
懸命に生きる人の背中をそっと支えることができれば何よりです。
(9月19日記)

道民みんなが被災者

「災害の少ない札幌市」という観念は全く覆されました。
6日未明の北海道胆振東部地震は、北海道観測史上初の震度7でした。
札幌市でも震度6弱を記録し、甚大な被害を受けました。
被災された皆さんにお見舞いを申し上げ、亡くなった方々やご家族のみなさんに心から、哀悼の意を表します。
突然の地震から6日たちますが、未だに停電、断水の地域もあります。スーパーなどの品揃えも不十分です。
高層住宅住まいの方は、停電によりエレベーターが使えず、給水が大変でした。
ただ「近所同士助け合って、つながりが強まった」という話も伝わっています。
8日に高橋千鶴子衆議や畠山和也前衆議、3人の道議らと、液状化により地盤沈下した重大な被害を被った里塚に入った時には「家を含む3軒は危険家屋の検査がされていない。私たちは除外されている」と涙ぐみながら訴えられました。党市議団通じてすぐに市役所に連絡し、家屋検査員を当日派遣できました。
6、7日の2日間で、避難所を8カ所訪問しましたが、小さい子どもの家庭、高齢者が身をよせていました。
液状化による地盤沈下やブラックアウト(大規模停電)、長期に及ぶ節電には、行政や北電などの責任も問われます。
(9月12日記)

台風の爪痕

ゆうべは、風の音で寝不足の方もいらっしゃると思います。私は、風の音を聞きながら寝入り、熟睡していたようで、アラームの音で目が覚めたのですが、地震や火災だったら逃げ遅れてしまうかもしれません。
翌朝、車を走らせると道路には枝葉などが散らばり、平岡では10メートル以上ある庭木が4本、お隣の屋根に倒れこんでいるお宅もありました。
4年前の9月11日の豪雨災害では、厚別川が増水し、携帯電話の緊急速報メールで起こされました。
避難所になっていた有明、清田、真栄小学校に足を運びました。有明では川の氾濫で橋が決壊し、住民の方が困っていました。要望をきき、その対応にあたり、土木センターと業者のご尽力で大きな被害を食い止めることができました。
1曰は防災の日です。95年前の9月1日に関東大震災が発生しましたが、この震災に乗じた直後の朝鮮人虐殺は忘れてはなりません。「朝鮮人が放火をして暴れている」などとデマが流され、朝鮮人とわかれば殺害されるというおぞましい事態を招きました。
災害が自然によっておこりますが、その災害の被害を最小限に食い止め、住民の暮らしや生業(なりわい)を守るのが、政治に求められています。
(9月5日記)

金網の向こう

沖縄でフェンスがちらつき目をそらし海を見つめる観光客は(神奈川県・桐蔭学園中学校2年)小林沙葉
朝日新聞社短歌コンクール「8月の歌」【中学・高校の部】優秀賞受賞作です。
先日のバス停での宣伝行動は、「平岡5-4」。自転車通学の高校生が、軽やかに通り過ぎるそばで、朝のご挨拶をさせていただきました。
行動の後、森を愛でてきました。
カラ松やミズナラ、シラカバの樹林の懐にある池は、空の光を映しだし、数羽の鴨が水面を滑るように浮かんでいます。

森の奥には枝に佇むアオサギの姿がありました。
ここは元は旧北海道拓殖銀行の所有で、野球のグラウンドやテニスコートがありました。
拓銀の破綻にともなって、旧ジャスコが土地を取得し、ショッピングセンターを建設することになりましたが、住民の要望で池を含む森の半分が殘されたのです。
10年以上前になりますが、「清田区の自然を守る会」は、この問題や「有明産業廃棄物処分場」建設を住民のみなさんとともにストップさせました。
金網の向こうに広がる豊かな自然を前に、ふと沖縄に行ったときの、延々と続くフェンス越しの沖縄の基地を思い出しました。
どちらも足を踏み入れることのできない場所だけれど、何という違いだろう。
(8月29日記)